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三島 由紀夫 (みしま ゆきお)   作家、劇作家

本名: 平岡公威 (ひらおか きみたけ)

通称: こうい

1925年(大正14年)1月14日
             〜  1970年(昭和45年)11月25日

東京市四谷区生まれ。 (現:東京都新宿区四谷)

学習院初等科から中等科および高等科を経て東京帝国大学法学部卒。
卒業後、大蔵省国民貯蓄課に入省したが9ヶ月で退職、作家として独立。



略年譜

1925年(大正14年) 東京市四谷区永住町に生まれる。
1931年(昭和 6年) 学習院初等科に入学。
1937年(昭和12年) 学習院中等科に進む。同学友誌「輔仁会雑誌」に誌『秋二編』が掲載される。坊城俊民と出会う。
1938年(昭和13年) 「輔仁会雑誌」に、最初の短篇小説『酸模(すかんぽ)』『座禅物語』が掲載される。国語教師として赴任した清水文雄と出会う。オスカー・ワイルドやジャン・コクトーを愛読する。
1940年(昭和15年) 詩人川路柳虹に師事する。詩『凶ごと』を書く。東文彦と出会う。伊東静雄を愛読する。
1941年(昭和16年) 「輔仁会雑誌」編集長となる。ペンネーム「三島由紀夫」を初めて名のる。『花ざかりの森』を『文芸文化』に掲載。保田與重郎と出会う。
1942年(昭和17年) 席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科乙類(ドイツ語)に進学。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊。
1943年(昭和18年) 林不二馬を知る。東文彦死去。
1944年(昭和19年) 高等科を首席で卒業。東京帝国大学法学部法律科独法入学。『花ざかりの森』刊行。徴兵検査第2乙種合格。
1945年(昭和20年) 『中世』『エスガイの狩』発表。
1946年(昭和21年) 川端康成の推薦で、自ら創刊した雑誌『人間』に『煙草』発表。『岬にての物語』発表。
1947年(昭和22年) 東京大学法学部卒業。大蔵省事務官に任官。『盗賊』発表。
1948年(昭和23年) 椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房らとともに『近代文学』の同人となる。創作に専念するため、大蔵省を依願退職。
1949年(昭和24年) 書き下ろし長編『仮面の告白』を発表。高い評価を得て作家の位置を確立する。
1950年(昭和25年) 書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を発表。
1951年(昭和26年) 『禁色』を発表。朝日新聞特別通信員として世界一周の旅へ出発(翌年8月帰国)。
1954年(昭和29年) 『潮騒』を発表。ベストセラーに。新潮社文学賞受賞。
1955年(昭和30年) ボディビルを始める。以降、生涯続ける。
1956年(昭和31年) 『金閣寺』(翌年、読売文学賞受賞)『近代能楽集』『永すぎた春』、戯曲『鹿鳴館』を発表。文学座に入団。ボクシングを始める(〜1958年ごろまで)。
1957年(昭和32年) 『美徳のよろめき』発表。ベストセラー。“よろめき”は流行語に。
1958年(昭和33年) 瑤子と結婚(画家杉山寧の娘)。剣道を始める。
1959年(昭和34年) 書き下ろし長編『鏡子の家』発表。
1960年(昭和35年) 『宴のあと』発表。大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演。
1961年(昭和36年) 『憂国』『獣の戯れ』発表。『宴のあと』モデル問題で、提訴される(1966年和解)。
1962年(昭和37年) 『美しい星』発表。
1963年(昭和38年) 『午後の曳航』『剣』発表。『喜びの琴』が上演中止になり、文学座を退団。
1964年(昭和39年) 『絹と明察』発表。文学座を退団したメンバーと劇団NLTを結成。
1965年(昭和40年) 『サド侯爵夫人』発表。ノーベル文学賞有力候補に。『豊饒の海』第一部『春の雪』連載開始。主演・監督作品『憂国』撮影、翌年上映。
1966年(昭和41年) 『英霊の声』発表。
1967年(昭和42年) 第二部『奔馬』連載開始。自衛隊に体験入隊する。F104戦闘機に試乗する。「論争ジャーナル」グループと「自衛隊防衛構想」を作成。空手を始める。
1968年(昭和43年) 第三部『暁の寺』連載開始。「楯の会」結成。中村伸郎らとNLTを退団し劇団浪漫劇場を旗揚げ、「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」などを上演。
1969年(昭和44年) 『文化防衛論』発表。東大全共闘主催の討論会に出席。映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演。
1970年(昭和45年) 第四部『天人五衰』連載開始。陸上自衛隊東部方面総監部に乱入(三島事件)。割腹自殺する。

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【 1925年(大正14年)〜1940年(昭和15年) 】 少年期


1931年、学習院初等科に入学。
当時学習院は、華族中心の学校で、平岡家は平民だった。
大名華族意識のある祖母の意向と言われる。

高学年時から、同学友誌「輔仁会雑誌」に詩や俳句を発表。


1937年、中等科に進学。文芸部に所属。
そこで8歳年上の坊城俊民と出会い文学交遊を結ぶ。

中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や散文作品を発表。


1938年には同雑誌に、最初の短篇小説掲載
『酸模(すかんぽ)〜秋彦の幼き思ひ出』、『座禅物語』


1939年、祖母・夏子が他界。同年第二次世界大戦が始まる。
生涯の師、清水文雄と出会う。平安朝文学への目を開かせた。
学習院に国語教師として赴任したのがきっかけ。


1940年、 詩人川路柳虹を師事。
平岡青城の俳号を使い、『山梔(くちなし)』に俳句、詩歌を投稿。
退廃的心情から、詩『凶ごと』を書く。

このころの心情は、のちに短篇『詩を書く少年』に描かれ、
詩歌は『十五歳詩集』として刊行された。

愛読したのは、オスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、
リルケ、トーマス・マンのほか、伊東静雄、森鴎外。
『万葉集』、『古事記』などの古典文学。

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【 1941年(昭和16年)〜1945年(昭和20年) 】 思春期


1941年、「輔仁会雑誌」の編集長に選ばれる。
小説『花ざかりの森』を手がけ、清水文雄に提出。
感銘を受けた清水とは、自らも同人の『文芸文化』に掲載を決定する。

同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斉藤清衛門下生で構成。
この時、ペンネーム「三島由紀夫」を初めて名のる。

また清水に連れられ、保田與重郎と出会い、
以降、日本浪曼派影響下の詩や小説を発表する。


1942年、席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。
学習院高等科乙類(ドイツ語)に進学。
同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊する。


1943年、林不二馬を知り、以降親しく交際する。
また同年に東文彦が死去し、『赤絵』は2号で廃刊となった。


1944年、高等科を首席で卒業し、恩賜の時計を拝領。
東京帝国大学法学部法律科独法に入学する。
出版統制の中、「この世の形見」として、『花ざかりの森』刊行に奔走。
10月に出版された。

本籍地の兵庫県加古川市(旧印南郡加古川町)で、
徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。
同級生の大方が特別幹部候補生として志願していたが、
三島は兵卒として応召するつもりであった。


1945年、群馬県の中島飛行機に勤労動員。
『中世』を書き続ける。2月、入営通知を受け取り、遺書を書く。
本籍地で入隊試験を受けるが、折からひいていた風邪を、軍医が肺浸潤と誤診。
即日帰郷となる。以降、三島は複雑な思いを持ち続けることになる。

このころ『和泉式部日記』、上田秋成などの古典、イェーツなどを乱読する。
このころ保田與重郎を批判的に見るようになった。同年『エスガイの狩』などを発表。
遺作を意識した『岬にての物語』を起稿する。

8月15日、敗戦。三島の「感情教育の師」とされる蓮田善明が
陸軍中尉としてマレー半島で終戦を迎え、8月16日にピストル自殺。

10月23日には、妹・美津子がチフスで17歳の若さで死去。
このころ、のちに『仮面の告白』で描かれた恋人とも別れる。

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【 1946年(昭和21年)〜1951年(昭和26年) 】 文壇デビュー


1946年、鎌倉に在住している川端康成の元を尋ね、『中世』『煙草』を渡す。
「鎌倉文庫」の重役であった川端は、雑誌『人間』に『煙草』の掲載を推薦。
これが文壇への足がかりをつかみ、以来川端とは生涯にわたる師弟関係となる。
同年、『岬にての物語』がようやく雑誌『群像』に掲載された。


1947年1月、太宰治、亀井勝一郎を囲む集まりに参加。
このとき、三島は「太宰さんの文学は嫌いなんです」発言をしたとされる。
これに対して太宰は「嫌いなやつはここにはいねぇよな」と返したという。

11月、東京大学法学部卒業。
高等文官試験に合格し、大蔵省事務官に任官。
銀行局国民貯蓄課に勤務する。
以降も小説家としても旺盛な作品の発表を行う。
初の長編『盗賊』発表する。このころ林房雄と出会う。


1948年、河出書房の編集者坂本一亀から書き下ろし長編の依頼を受け、
9月には、創作に専念するため大蔵省を退職した。


1949年7月、書き下ろし長編『仮面の告白』を出版。
同性愛を扱った本作は、高い評価を得て作家の位置を確立した。

以降、書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした
『青の時代』を1950年に、『禁色』を1951年に発表。
戦後文学の旗手としての脚光を浴び、旺盛な活動を見せる。

また1951年12月には、朝日新聞特別通信員として
世界一周の旅へ出発した(翌年8月帰国)。

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【 1952年(昭和27年)〜1957年(昭和32年) 】 三島文学


世界一周旅行中に、「太陽」「肉体」「官能」を発見した三島は、
以後の作家生活に大きな影響を及ぼした。

1955年頃からはじめたボディビルに代表される「肉体改造」。
そして森鴎外に代表される古典的な「文体改造」である。
その双方を文学的に昇華したのが1950年の、
長編小説『金閣寺』(1956年)と言え、三島文学の代表作となった。

かたや三重県神島を舞台とし、
ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』(1954年)、
『永すぎた春』(1956年)、『美徳のよろめき』(1957年)
などのベストセラー小説を多数発表。

タイトルは流行語ともなり、映画化作品も多数制作され、
文字通り文壇の寵児となる。

また戯曲『鹿鳴館』、『近代能楽集』(ともに1956年)などの
戯曲発表も旺盛で、文学座をはじめ演出、出演も行った。


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【 1958年(昭和33年)〜1964年(昭和39年) 】 世界的評価


1958年、画家・杉山寧の娘、瑤子と結婚。
大田区馬込にビクトリア調コロニアル様式の新居を建築する。

このころ、ボディビルに加えて剣道を始め、
大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演(1960年)したり、
写真家細江英江の『薔薇刑』の被写体モデル(1963年)になったりと、
肉体を露悪的積極的に自らさらした。

またこの時期は、三島の文学がヨーロッパやアメリカなど
海外で評価されるようになり、舞台上演も多く行われた。

以降、三島の世界的評価は固定される。
三島は、国内での冷遇された評価に対し、
海外を意識し、理解者を求めた形跡がある。


1959年に三島は、書き下ろし長篇『鏡子の家』を発表する。
起稿から約2年をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが、
本作では「時代」を描こうとした野心作だった。

奥野健男は「最高傑作」と評価、平野謙や江藤淳は「失敗作」と断じた。

とはいえ文壇の寵児として、『宴のあと』(1960年)、
『獣の戯れ』(1961年)、『美しい星』(1962年)、
『午後の曳航』(1963年)、『絹と明察』(1964年)などの長篇。

『百万円煎餅』(1960年)、『剣』(1963年)などの短篇。

『薔薇と海賊』(1958年)、『熱帯樹』(1960年)、『十日の菊』(1961年)、
『喜びの琴』(1963年)などの戯曲を旺盛に発表した。


1961年に発表した『憂国』は作者の意図を超えて、
のちの作者自身に大きな影響を与えた一作となる。

一方『宴のあと』をめぐるプライバシー裁判(1961年〜)。
深沢七郎『風流夢譚』をめぐる嶋中事件で右翼から脅迫状(1961年)。

『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件(1963年)などと、
文学と政治・思想にまつわる事件も多かったが、
晩年のファナティックな政治思想ほどの関わりは持たなかった。


1962年には、のちの『豊饒の海』の構想が固まってもいる。

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【 1965年(昭和40年)〜1970年(昭和45年) 】 楯の会


1965年から輪廻転生譚『豊饒の海』の第一部『春の雪』が連載開始(〜1967年)。
同年には『サド侯爵夫人』も発表、
ノーベル文学賞有力候補が報じられ、以降引き続き候補となった。

同時に主演・監督作品『憂国』の撮影を進め(1965年、翌年公開)、
『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海』第二部『奔馬』(1967年〜1968年)と、
美意識と政治的行動が深く交錯し、
英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。


1966年12月には民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。
以降、同グループと交遊を含めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。


1967年には、その最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、
F104戦闘機への試乗や『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。
自衛隊将校の山本舜勝とも交遊した。

政治への傾斜と共に『太陽と鉄』『葉隠入門』
『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。


1968年、第三部『暁の寺』(〜1970年)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。
日本学生同盟の森田必勝および古賀浩靖らと「楯の会」を結成する。


1969年、戯曲『椿説弓張月』『癲王のテラス』を発表。
東大全共闘主催の討論会に出席。
映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演。

同年には、『論争ジャーナル』グループと決別し、
「楯の会」はのちの三島事件の中心メンバーとなる。


1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内、
東部方面総監部の総監室を「楯の会」メンバーとともに訪れ、
隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。

バルコニーで自衛隊決起を促す檄文を巻き、
演説をしたのち割腹自殺した(三島事件)。


決起当日の朝、担当編集者に手渡された『豊饒の海』第四部
『天人五衰』最終話の脱稿日は、同日となっていた。

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Last updated: 11/11/2005 Copyright(C)2005 日本覚醒 三島由紀夫. All Rights reserved. INDEX
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